2021年1月22日金曜日

源氏物語

                              北多摩北地区(東久留米分区)衛藤 裕子


 いづれの御時にか女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに…主人公“光源氏”を生んでそのまま死んでゆく源氏物語の『藤壷』の巻の書き出しである。

 私は若いころ何となく読み、光源氏の気紛れな恋愛小説ととらえていた。しかし、古稀を迎えた今読んでみると、私自身生きてきた経験をふまえ改めて物語から問題が発見され、源氏への関心がふくらんでくる。日々の宮廷生活の中に人間の葛藤が示されていて、興味本位でないことに気付いた。源氏物語の中の人物の体験を同じように味わうことはできないが、起きた事柄に対し登場人物がどのように乗り越えようとしたか、どのようにして苦しみに耐えてきたか。人間の気持ち、人間の心の世界を細やかにありのままに丁寧に書き留めているのは、世界の文学のなかでも突出している。

 本居宣長も「人の様子、自然にあることをありのまま書いているので、人生の節々で感じる喜び、悲しみ、苦しみを重ねてみて実感できる。儒学や仏典などのような書物とは違う。11世紀の人間の心の動きを描いたのは、世界でもただ一つ源氏物語だけ。」と言っている。

 源氏像は、当時の人たちのあらゆるあこがれとする一級品の顔、形、姿、身分、心ばえを集めた人物で、もののあはれを知る人が良き人だったので、その時代に一線で活躍した人のよい所を全部集めて一人の人物像を表現しているとも考えられる。

 平安時代の貴族の家族小説「空蝉」では、人妻空蝉を光はなんとか手に入れたいと恋を仕掛ける。空蝉が心の中で経験した葛藤は、当時の社会矛盾の表現。

「乙女」は、光の長男夕霧は12歳になり、夕霧への教育論。

「蛍」では養父の光が玉鬘に言い寄るあたり、人間の心をありのままに描いていて、文学とは何か、勧善懲悪の儒教の宣伝ではない。十人いたら十人の解釈がある。ここにこう言う生き方をする人がいる。みんなどう思う?考えようという文学論。

「真木柱」は武骨な髭黒が浮気をし離婚する。両親の不和の間で子の親権・養育費についてのべている。

「葵」では妻を失った男はどうなるのか、娘を失った父母兄弟はどうなるのか、愛しい人を失った人間の心のさみしさ、むなしさ、失った寂寥感は埋めようがない‥‥など。

 でもこの物語でいちばんの問題は、光と藤壷女御との蜜通に至った罪の問題ではないだろうか。

 源氏物語を再読すると、決して貴族社会の愛欲だけを描いているのでなく、悲劇感覚の深さを感じる。

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