府中地区保護司会 矢島 千里
昭和30年代にあって令和3年にないもの。
府中地区保護司会 矢島 千里
昭和30年代にあって令和3年にないもの。
北多摩北地区西東京分区 星出卓也
保護司となって沢山の方から助言やアドバイスを頂いたが、カウンセラーの中村泰章先生から学んだことは計り知れないほど大きく、今も私の保護司としての歩みを支えています。更生保護協会が主催する学習会などで中村先生が伝えたことは、相手を援ける援助とは、援助者が一方的な助言を与えることではなく、本人が自分の意思で立ち直ろうとすることを援けること。人に非行からの立ち直りという行動の転機を与える鍵となるものは、決して親や教師や保護司といった他人からの助言ではなく、本人自身の立ち直ろうとする意思にある、ということでした。そのような相手の心に改善や転機が生まれることを援けるような援助こそが保護司には求められているということでした。
中村先生は「保護司が相手を知る方法は外側からではなく、内側からである」と語っていました。「外側から相手を知る」とは、医師が患者に対するように、本人の問題点を客観的に観察し、いわば診断的に相手を外側から分析して助言を与えるという方法です。しかし人が求めていることは客観的な事例であるかのように観察されることではなく、一人の人間として接してもらうことです。それに対し「内側から相手を知る」ということは、相手の心の動きに沿って相手の気持ちに共感し理解するという方法です。そうした自分の気持ちを理解しようとする人の存在によって、人は始めて自分自身の心を見つめ始めるということでした。
私自身の生涯を振り返っても、親や他人から受けるアドバイスがどれほど正しいものであっても、私が「本当にそうだ」と思わないかぎり私を動かす言葉とはなりえませんでした。しかし自分が色々な挫折を通して「俺は一体何をやっているのだろう・・・」と自分自身が痛感し、受け止めたことは、もはや他人の言葉ではなく自分の言葉でした。そんな自分の気づきを生み出してくれるものは、自分に関心をもって共感する人の存在でした。
今でもついうっかり、余計な助言を人に押し付けては空回りする連続ですが、その度に、本人の意思しか本人を変えられないことを心に刻んで、面接の原点に立ち戻らせていただいています。
八王子保護司会 山田 雅彦
町田地区 吉岡 俊幸
あの日あの時、どこで何をしていたのか、保護司の皆さんは鮮明に記憶されていることでしょう。2011年3月11日午後2時46分。私は東日本大震災以降、東北3県と様々なかかわりを持つようになりました。
発災の年、当時勤務していた小学校から福島県浪江町教育委員会へ教育支援金を送り、教育長の計らいで浪江の子ども達と交流することが出来ました。
大川小学校震災遺構 |
2014年内地に戻ってからは、5年間中学校で「防災教育の日」に三陸河北新報社の記者や避難所運営に携わった方などを招き、当時の様子や防災教育について講演をお願いしてきました。そして、2019年4月教職を退き東北三昧の旅が始まります。コロナ禍に翻弄されながらも、現在まで7回の訪問で延べ57日、訪問先は浪江や石巻・気仙沼を中心に、岩手県の陸前高田・釜石鵜住居など10か所以上。
その間、私は主に二つのことに注力してきました。それは復興の現状を自らの目で確かめるとともに、自治体が抱える復興への課題を役場などで話を伺うこと。2点目は雄勝の海で漁業ボランティアを行い、海と共に生きる漁師の生活者目線で震災を考えることです。海では定置網漁やホヤの水揚げ、浜ではワカメの種付け・収穫浜茹で・袋詰めにロープやブイの掃除など漁師の日常を学んできました。
8,640kmの旅を振り返ると、今なお「帰還困難区域」が存在していること、インフラ整備が進む一方で取り残された地域が存在し「復興格差」といった言葉を耳にすること、10年の歳月が経過し「風化への懸念」を募らせる人々や「止まった時間」に苦しむ人々の存在など課題解決の道のりはまだまだ続いています。
最後に、気仙沼の宿で目に留まった提灯を紹介します。津波に飲まれ全壊し、7年越しの再建を果たした旅館です。
西多摩地区保護司会 原島 悟
西多摩地区保護司会は、東京23区面積とほぼ同じ広さで、4市3町1村の8行政の分区から構成されています。豊かな自然や歴史に恵まれ文化人や著名人など多くの人々をひきつけ、豊かな文化圏を形成してきました。
東京都の有形文化財にも指定され、現在の憲法にも相通ずる点のある五日市憲法草案を調べてみました。明治14年に作られた五日市憲法草案は、明治10年代の自由民権運動が盛んな時期に、全国各地で作られた私擬憲法草案(民間有志による私案の憲法)のひとつ。昭和43年(1968年)にあきる野市(当時の五日市町)深沢にある深澤家の土蔵の中から発見されました。
標題は「日本帝国憲法」と書かれていましたが、発見者である東京経済大学の色川大吉教授によって「五日市憲法草案」と命名された憲法の草案の起草者は、現在の宮城県栗原市出身の千葉卓三郎です。
明治13年(1880年)五日市で教員として勤務し、学習結社である学芸講談会の活動を通じて自由民権運動に多大な影響を与えた人物です。彼とともに活動し大きな援助を与えたのが、盟主深澤名生とその長男権八親子です。
全部で204の条文が和紙24枚に筆文字で記されており、非常に条文が多いことが特徴で、国民の権利に関わる内容を多数盛り込んだ草案です。
府中地区保護司会 市毛 彰
そうした考えのもと、私の趣味のテニスを活かしたボランティア活動として、小学校でのキッズテニス教室・中学校テニス部でのテニス指導、今年32年目になった日韓大学生テニス交流支援をボランティアとして進めて来ました。
ボランティアとして始めたテニス指導ですが、学生時代に私が習得したテニスの指導方法と今の近代テニスの指導方法は異なることから、テニスを学びなおす必要性を感じ、日本スポーツ協会公認 日本テニス協会公認 テニスコーチ①(旧 テニス指導員)の資格試験に挑戦し合格することができ、さらに知識を深めるためにテニスコーチ②(旧 上級テニス指導員)にステップアップする試験にも合格することが出来ました。テニスの指導員資格を習得したためコーチングや最新のテニス指導方法を学ぶ機会に恵まれ、特に教育や人材育成におけるコーチングの重要性を感じるようになりました。
《コーチングとティーチング》
コーチングとは、「一方的な指示・命令ではなく、質問・提案を投げかけることにより相手の発言を促しつつ、自分の特性に気づかせ、自発的な行動を引き出していく手法」です。私が学生時代のテニス指導は、コーチングではなく一方的なティーチングが主であり、どうしたら課題がクリアするのか戸惑った経験がありました。今はコーチングの重要性を知りコーチングを軸にして学生、社会人、高齢者にテニスのボランティア指導をしています。社会人に2カ月間のコーチングをしましたが、テニス大会で優勝するなど、信じられない程の成長をしたこともありました。昨年から東京都スポーツ指導者協議会の理事として広報を担当することになり、コーチングの重要性を皆さんに伝えたいと思っています。
保護司としての更生保護活動にも、コーチングが有効であると思います。保護観察対象者と会話しながら自発的な行動を引き出していきたいと思います。
北多摩北地区(東久留米分区)衛藤 裕子
いづれの御時にか女御更衣あまた侍ひ給ひけるなかに…主人公“光源氏”を生んでそのまま死んでゆく源氏物語の『藤壷』の巻の書き出しである。
私は若いころ何となく読み、光源氏の気紛れな恋愛小説ととらえていた。しかし、古稀を迎えた今読んでみると、私自身生きてきた経験をふまえ改めて物語から問題が発見され、源氏への関心がふくらんでくる。日々の宮廷生活の中に人間の葛藤が示されていて、興味本位でないことに気付いた。源氏物語の中の人物の体験を同じように味わうことはできないが、起きた事柄に対し登場人物がどのように乗り越えようとしたか、どのようにして苦しみに耐えてきたか。人間の気持ち、人間の心の世界を細やかにありのままに丁寧に書き留めているのは、世界の文学のなかでも突出している。
本居宣長も「人の様子、自然にあることをありのまま書いているので、人生の節々で感じる喜び、悲しみ、苦しみを重ねてみて実感できる。儒学や仏典などのような書物とは違う。11世紀の人間の心の動きを描いたのは、世界でもただ一つ源氏物語だけ。」と言っている。
源氏像は、当時の人たちのあらゆるあこがれとする一級品の顔、形、姿、身分、心ばえを集めた人物で、もののあはれを知る人が良き人だったので、その時代に一線で活躍した人のよい所を全部集めて一人の人物像を表現しているとも考えられる。
平安時代の貴族の家族小説「空蝉」では、人妻空蝉を光はなんとか手に入れたいと恋を仕掛ける。空蝉が心の中で経験した葛藤は、当時の社会矛盾の表現。
「乙女」は、光の長男夕霧は12歳になり、夕霧への教育論。
「蛍」では養父の光が玉鬘に言い寄るあたり、人間の心をありのままに描いていて、文学とは何か、勧善懲悪の儒教の宣伝ではない。十人いたら十人の解釈がある。ここにこう言う生き方をする人がいる。みんなどう思う?考えようという文学論。
「真木柱」は武骨な髭黒が浮気をし離婚する。両親の不和の間で子の親権・養育費についてのべている。
「葵」では妻を失った男はどうなるのか、娘を失った父母兄弟はどうなるのか、愛しい人を失った人間の心のさみしさ、むなしさ、失った寂寥感は埋めようがない‥‥など。
でもこの物語でいちばんの問題は、光と藤壷女御との蜜通に至った罪の問題ではないだろうか。
源氏物語を再読すると、決して貴族社会の愛欲だけを描いているのでなく、悲劇感覚の深さを感じる。