町田地区 吉岡 俊幸
あの日あの時、どこで何をしていたのか、保護司の皆さんは鮮明に記憶されていることでしょう。2011年3月11日午後2時46分。私は東日本大震災以降、東北3県と様々なかかわりを持つようになりました。
発災の年、当時勤務していた小学校から福島県浪江町教育委員会へ教育支援金を送り、教育長の計らいで浪江の子ども達と交流することが出来ました。
大川小学校震災遺構 |
2014年内地に戻ってからは、5年間中学校で「防災教育の日」に三陸河北新報社の記者や避難所運営に携わった方などを招き、当時の様子や防災教育について講演をお願いしてきました。そして、2019年4月教職を退き東北三昧の旅が始まります。コロナ禍に翻弄されながらも、現在まで7回の訪問で延べ57日、訪問先は浪江や石巻・気仙沼を中心に、岩手県の陸前高田・釜石鵜住居など10か所以上。
その間、私は主に二つのことに注力してきました。それは復興の現状を自らの目で確かめるとともに、自治体が抱える復興への課題を役場などで話を伺うこと。2点目は雄勝の海で漁業ボランティアを行い、海と共に生きる漁師の生活者目線で震災を考えることです。海では定置網漁やホヤの水揚げ、浜ではワカメの種付け・収穫浜茹で・袋詰めにロープやブイの掃除など漁師の日常を学んできました。
8,640kmの旅を振り返ると、今なお「帰還困難区域」が存在していること、インフラ整備が進む一方で取り残された地域が存在し「復興格差」といった言葉を耳にすること、10年の歳月が経過し「風化への懸念」を募らせる人々や「止まった時間」に苦しむ人々の存在など課題解決の道のりはまだまだ続いています。
最後に、気仙沼の宿で目に留まった提灯を紹介します。津波に飲まれ全壊し、7年越しの再建を果たした旅館です。