2016年10月28日金曜日



茄子と心と

                                        北多摩東地区保護司会 三鷹分区 星野直治


 私は三鷹市で農業を営んでおります。野菜栽培で主に茄子を作付けしています。1本の木で10個や15個を収穫するには畑に植えておけば育ってくれるでしょう。しかし1本の木で100個以上収穫するにはそれなりの日頃の手入れと管理が必要となります。

 しかも市場出荷となりますといかに A品を多く収穫するかが課題です。A品は最高の品質と評価され、高値で取り引きされます。市場には全国各地より沢山の茄子が出荷されてきます。この中でいかに高値で取り引きしていただけるかが生産者の目標とするところです。品物が良ければよいということも大切ですが、それよりも信用がなによりも大切となります。
 
茄子は日頃の管理をしっかりとしておけば、それに必ず応えて良い実をつけてくれます。管理を怠れば、それなりの結果が出ます。

 私は保護司を承ってから5年目を迎えた頃より野菜作りも子育ても健全な人間形成をしていく上で共通するところがあるのかなと思うようになりました。毎月来訪する対象者に自分の家族と同じように接し、話を聞き、話し相手になってあげることが実りある保護司の活動の第一歩だと思います。はじめから「それは悪い、あれは悪い」では月2回の来訪も1回になり、1回の来訪も遠のき、やがて来訪もしなくなってしまう。野菜作りではないが、面会はその都度心を込めて接することが大切になってきます。

 私共の分区で定年を迎えて辞める方が多くなってきました。1年未満の新任保護司が2名の対象者を受け持っている場合があるくらい、保護司が欠員しています。保護司になってほしい旨お願いしますと、本人が保護司を引き受けてもよいと思っていても、家族からの反対があるということも耳にします。これからは私共が保護司として誤解のないよう充分に説明をしていかなければならないと考えております。さらに、保護司の大切な役割を地域の人びとに理解していただくための努力も必要かと思います。

 

 海の幸を堪能する東北紀行                         
      
     府中地区保護司会 内藤 治
 
 2011年3月11日の東北大震災発生以降、機会をとらえて数回被災地を訪れている。現地を実際訪れるとテレビなどとは異なる臨場感があり、改めて地震・津波の威力を思い知らされる。跡形もなくなった街や集落、破壊された建物のむなしい残骸、陸に上がった大型の船など、衝撃的な光景だった。時間の経過とともに、復興が見える形で進んでいる所、あるいは、まだ遅々として復興が進まず取り残された所など様々だ。
被災地の実情を自分の目で見て、被災者の声にならない声を肌で感じて、人々の生き様を見て、そして、被災された方々の思いに少しでも寄り添うことは、現代を生きる日本人としての責務であると思う。
地酒を味わいながら美味しい海の幸を堪能して楽しみ、そして、地元にお金を落とし、被災地の景気浮揚にほんの少しだけ貢献することも、立派なボランテイア活動かもしれない。
日本に起きた未曾有の大災害の記憶を風化させることなく、見て感じたことを次の世代へ語り継ぐことは、保護司活動と優劣つけ難い大切なことだと思う。震災が発生して6年経過したが、まだ東北の被災地を訪れたことのない方々にひと言。今ならまだ間に合うので、激甚災害の記憶を心に焼きつけるために東北を訪ねよう。

 

2016年9月16日金曜日

   

保護司としての10年を振り返って
 
                     町田地区保護司会 南分区 矢口昇

 幼い頃より毛筆が好きだった私ですが書道塾に通うことが叶ったのは大学に入学した後のことでした。師匠の人柄にも惹かれ、一層書の鍛錬に打ち込む大学時代を送りました。卒業後は大学職員として就職しましたが、書に携わりたい気持ちが強く、周囲からの後押しもあったことでサラリーマンと書道塾指導者として二足の草鞋を履くことになりました。
 
幸いなことに小・中学生、殊に小学生は習字・そろばんの塾通いがブームの時代、開設後数年で常時4050名の児童と大人45名を抱える教室となりました。仕事との兼合いに懸念もありましたが、家族の協力も厚く環境の変化等から閉めるに至るまで約15年は、年12回所属会の選抜展にも大型作品を出展するなど存分に趣味を謳歌出来た時間でした。

 50代半ばになり、地域活動(町内会)等に関わり地元の郷土史に目を向ける機会がありました。大学での専攻は日本史と生来歴史に関心の高かった私は、歴史を調べるに参考となる町内の地誌歴史本がないことを知り、これは何とかしなければと能力不足も顧みず町内で郷土史研究会を組織し今に至ります。現在はこの郷土史研究をライフワークと位置づけ、数年後には郷土史本を刊行したいと考えています

  気付けば今年で保護司となり10年となります。身内先の先輩保護司に推薦の話をいただくまで自身が保護司となることなど考えたこともありませんでしたが、振り返ると書道塾で児童と関わったこと、地域団体コミュニティに所属し自主的に活動すること、大学職員時代に就職部の一員として多種多様な学生と面談した経験など、没頭した趣味と長く従事した仕事の双方が保護司としての活動の糧になっていると感じます。

自身の足跡を振り返り、改めて、今後も体力の続く限りより一層地域社会や対象者をはじめとした人々に頼りにしてもらえるような自分でありたいと考えております。


 

2016年7月14日木曜日

                            保護観察官と保護司 
 
 
                                             調布狛江地区保護司 柿澤正夫

                                                                                
 私は、昭和48年名古屋保護観察所で保護観察官を拝命し、関東地方更生保護委員会で退職するまで約38年間、更生保護の仕事に携わってきました。その後、調布・狛江地区の保護司を拝命して既に5年目に入っています。保護司を拝命してすぐに担当を依頼された4号観察の方は、仮解除にこそならなかったものの、4年間を無事に過ぎようとしています。
  
   この4年余り保護司として活動する中で、保護観察官と保護司の違いはどこにあるだろうと時々考えてきました。結論的に言いますと、保護観察官は職務(「義務」と言ってもよいと思います。)として保護観察を行い、保護司は「喜びを得るため」(「楽しみのため」とも言えると思います。)保護観察を行うと言えると思うようになりました。このように言うと、保護司は対象者が来訪しないときなど、何度も家まで出かけていくなど大変なんだ、「楽しみのため」とは何事だとお叱りを受けそうです。しかし、そうして苦労させられた対象者が立派に更生して結婚した時などに感じる喜びは、保護司でこそ味わえるものです。私は、4号観察の対象者の就職が決まりそうだと報告を受けた時に、保護観察官の時には感じたことがない喜びを感じました。結局、就職はかなわなかったのですが、あの時の喜びは何だったのだろうと思います。
  
   保護観察官は、職務として保護観察を行っていますので、いろいろな義務が伴います。その中で最も大きいのが再犯の防止です。保護観察対象者が再犯をした時には、保護観察官は何故再犯に至ってしまたのか検証しなければなりません。その過程で処遇に問題があれば厳しく指導を受けますし、場合によってはマスコミで取り上げられたり、あるいは政治問題にもなります。そのため、極端に言えば、保護観察官は再犯の観点から対象者を見ています。就職は再犯から一歩遠のいたことになりますし、家庭でのいざこざの発生は再犯の虞が大きくなったと言えます。保護観察対象者が結婚をし、子供に恵まれることは、保護観察官にとっては再犯から遠ざかったことで安心感は抱きますが、保護司が感じるように、対象者の人間の成長に対する喜びは薄いように感じます。
  
   このことは、保護観察官と保護司の仕事の分担にも関わります。保護司は対象者との人間的な関わりの中で対象者の更生を指導するのに対して、保護観察官は専門職として多少距離を置いて対象者と接しています。日本の更生保護制度は、専門職としての保護観察官と地域性を持つ保護司との協働態勢で行われていることに特色があるとよく言われますが、保護司の特色は、地域性のほかに対象者との間で人間的な関係を築ける点にあり、この点にこそ最も大きい特色があると言えます。
  
   保護観察を受けている対象者から見た場合、保護観察官は「役所の人」「約束を守らなければ不利益を与える人、約束を守れば解除をしてくれる人」という印象が強いと思います。呼出し、出頭指示、仮釈放等の取消、あるいは保護観察の解除など、保護観察官には法の執行者という側面が強く印象付けられます。これに対して保護司は、「近所のおじさん、おばさん」「うるさいことを言うけれど相談にも乗ってくれる人」という印象が強く、どこか頼れる人というイメージが強く働きます。保護司との関係では、法の執行者という側面は最小限に抑えられているのが現実です。

アメリカやイギリスでは保護司制度がありません。保護観察官が専門的なプログラムを駆使して保護観察を実施しても、保護司のように日常的に顔を合わせ、長い時間をかけて対象者と人間的な関係を結ぶ中で、対象者に影響を与え、その更生を図っていく人はいません。私は、アメリカやイギリスなどで保護観察が必ずしも思うような成果を上げていなのは、保護司やこれに類する制度がないことが原因の一つであると思います。

来年、世界保護観察会議が東京で開催されます。この会議の大きいテーマは保護司制度です。フィリッピンやタイ、シンガポールなどアジアの国々では保護司制度が活用されていますが、これに対してヨーロッパやアメリカの国々がどのような評価を与えるか楽しみにしています。 

 

2016年4月7日木曜日


3年目の初心

 

                      八王子地区保護司 山田雅彦

 八王子地区保護司となって3年目。ようやく、「保護司」と人から呼ばれ、自身でも「保護司」と自称できるようになったこの頃である。対象件数は数と内容ともにベテラン先輩と比較すると、それこそ雲泥の差があるが、保護司活動全般の姿がやっと見えてきた。しかし、本音を漏らすと、保護司として対象者との直接的な接触・支援をする活動以外の活動があまりに多い。その現実が自分の予定表の空白を埋めてしまうことが多い。それでも、これは組織となれば当然であり、保護司諸氏との接触では人間的な学びも多くあり、各種の研修ではこれまで全く認識すらしなかったことに気付くこともあり、人間としての幅を広げることができているのではないかと自分で自分を納得させている昨今ではある。

さて、最近大変気になっていることの一つは、再犯の件である。月に三度ほど関わっている更生保護施設を、保護観察を終わり社会に出ていく人が再犯者となってしまうことがある。施設ではあれほど更生の生活を送り社会に出るが、犯罪の淵に再び落ち込んでしまう。なぜ、あの人が!と、衝撃を受けることが度々。また精神を病んでそのまま精神科に入院してしまう人も多い。力の及ぶ限り支援しても残念ながら更生・向上に結びつくケースになることがなかなか難しい。まだまだ自分の感化力がないのだと歯がゆい思いに責められる日々を送っている。

一方、こうして犯罪を犯した人達を強く意識していると、加害者がさまざまに手をかけられている一方で、あまりに「被害者」またその遺族・家族のことが国側からも世間からもないがしろにされているのではないかという現実がある。保護司としても常に被害者の観点を忘れてはなるまい。たとえ覚醒剤犯罪であっても、犯罪者の家族の痛手はあまりに大きい。加害者側が被害者側の痛切な悲しみを理解してその分まで更生するような方向に歩んでいくように心を仕向けて行かなければ、保護司としての更生保護活動の意義はないと思う。しかし、理想と現実の懸隔は、あまりに・・・・・・。

あれこれ悩んでいても現実は常に目の前にある。今後の保護司活動として、せめて犯罪を犯す側と被害者の側の心理を両面から考えて支援し感化し、決して再犯はしないという強い意志が心の底から醸成されて自身を死ぬまで律し続けていけるように、心からの働きかけを行っていきたいものである。そのためにも、これまでの拙い人生経験に胡坐をかいていてはいけない。自らがさらに人情の機微を深く理解し、人間としてさらに成長していかなければならないと思う。

2016年1月6日水曜日




私の歩んできた道
                                                                              
                                                                                   北多摩東地区保護司会 飯村雅洋

 
趣味はと尋ねられると、車、グルメ、ボディーメイク、ファッション、映画、音楽、散策と列挙する。しかしこのすべてを語るときりがなく、それではと考え、自身の歩んできた道と生き方について述べることにします。

それは保護司を務めようとしたことにも大きな関わりがあります。心理学を学んだこともひとつの要因ですが、米国の大手商社にエンジニアとして勤務していた20代当時、某日本メーカの台湾工場へ製造委託するに当たり、その技術力や品質確認のために視察に訪れたことに始まります。

昭和48年初めて訪れる台湾、現地駐在員に台北駅に送っていただき、汽車で3時間を費やし台中に向かう、無事仕事を終え台北へ戻る車中で思わぬアクシデントに遭遇しました。 

あと23駅で台北に到着する時に突然汽車が停まってしまいました。既に1時間以上経過、車内放送は中国語、何が何だか分からず途方に暮れる、困った、駅には駐在員が迎えに来ており、明日は帰国日、どうしよう、そうだ、たしか台湾の年配の方は日本語が多少分かるのではと、隣の方に日本語で話しかけてみました。

日本語が分かりました。ひとまず安堵、説明を受ける、台風のため前の汽車が脱線し何時復旧するか分からないとのこと、私の困っている状況を話すと、なんと一緒に線路に降りて、タクシーで台北駅まで送ってくれました。 

見ず知らずの私に、何のためらいもなく親切にしていただけた、この人、このこと、この時、が私の人生のターニングポイントになりました。これが真の人としての道ではないのか。それからはこの時の体験を忘れず、人との関わりを大切に、微力ではあるが生涯人の役に立ちたい、この思いで我が道を歩むこととしました。

余談ですがこのときから台湾、台湾人が好きになり、第二の故郷と位置付け、昭和49年から一年間台湾に駐在、多くの人脈を作り、中国語(マンダリン)を学び、退職後も台湾とのビジネスを続け現在も台湾で会社を営んでおります。

また、ひとりでも多くの人と知り合い、様々な考えや知識を学ぶことも大切にしています。人見知りをせずに、誰にでも平気で声をかける、今日も新たにひとりの知人ができた、楽しいですよ。ですので、私は人種、ジェンダー、学歴、職業、年齢で人間を判断しません、大切なのは、その人のアイデンティティーとパーソナリティーだと考えています。

海外では自己主張しなければ仕事にならないことの影響かもしれません。しかし自己主張するには、自己認識、そして自己責任がついてきます。簡単ではありませんね。

 むすびに、思いに任せ、まとまりのない文脈でしたが、現在、「ノブレス・オブリージュ、コーポレート・ソーシャル・レスポンシビリティ」を 旨とし、様々な奉仕活動を続けております。



 


 
講演「子供たちに寄り添う」を聴いて

北多摩東地区保護司会長 須 﨑 英 夫

 
国分寺武蔵ロータリークラブ主催の講演会に、保護司が招待されたので参加してきました。

 テーマは、「子どもたちに寄り添う」~いじめ・虐待・非行の現場から~で、大変に素晴らしいお話しでした。講師は、弁護士で「社会福祉法人カリヨン子どもセンター」理事長 坪井節子さんです。

 講演は、弁護士会の[子ども人権相談員]として接触した、いじめ・非行・虐待・不登校などで苦しむ子どもたちとのエピソードから、子どもたちから信用されない無力な大人たち(親・先生など身近な)の話しに展開し、こうした大人たちに反発して非行の深みにはまる子どもたちの実態が、非常に解りやすい表現で話されました。

 自分で選んだわけでもなく、置かれた環境の中、もがきながら生きていく術を必死に探す子どもたちに寄り添い、帰るところのない子どもたちのために、子どものシェルターの必要を痛感して、弁護士会として「カリヨン子どもセンター」を起ちあげ、多くの人達の協力を得て、各地に施設を拡大しているそうです。

 以上が、講演の全体の流れでした。大変お話が上手で、涙を拭く参加者も沢山いました。行動し、シェルターを造った坪井氏のお話は本当に胸に迫るものがあり、お話を聞いて、こうした子どもたちに目と目を合わせて「君が、君の命が大事なんだよ」と言える、弱者に寄り添う大人でありたいと心から思いました。

 質議応答の時間がなかったので、終了後に講師に声をかけ保護司であることを名乗り、「無力の大人の話はよく理解できた。地域でシェルターに変わる対策は何かできないか?」とお尋ねしたら、「難しいですね、出来るとしたら予防対策ではないでしょうか。」とのお答えでした。

 支援を求めない人、助けを求める術を知らない人の存在に胸を痛めます。わが国の福祉制度は、それを利用できる人にとってはそれなりですが、そこに至らない人はその支援が得られません。

 このような、いうなれば「制度の隙間」に対し、保護司が何とか関与出来ないか、と考えています。いわゆる「待ちの姿勢」だけでは、本質的な解決は無いのではないでしょうか。

難しい課題ですが、皆さんでよく考えてみませんか?