国分寺分区/本多 勇
人との「距離感」について、いつも考えさせられます。もちろん、物理的な距離ではなく、心理的・社会的な距離感のことです。
生まれてすぐの赤ちゃん(乳児)は、抱っこや授乳(食事)、おむつ交換(排泄)、寝かしつけなど、さまざまに関わらねばなりません。それがだんだん保育園など社会に触れるようになり、成長してくると「パパ・ママやって!」から「自分でやる!」が増えるようになります。そして小学生、中学生、高校、大学・・・と段階を経ていくにつれ、生活の自立度が高まり、「放っといて」と関わりを拒否するようなことも出てきます。子育てをしたことがある方は実感されたことがあると思います。
家庭だけでなく、職場や学校など複数の人が集まる場面や、友人・知人・恋人との人間関係においても、距離感は重要です。その人の「世界(意味世界、生活世界)」へ関わる際、人間関係の良いバランスを維持するために、上手に距離感を保つ必要があります。社会的な礼儀、社交はある程度のバランスが保たれます。生活への支援(医療・福祉、教育、そして司法)の局面には、より一歩踏み込んだ関わりが求められます。ここで、「自由」や「放任」の姿勢で見守っているのがベターか、それとも「介入」「保護」「干渉」するように変更させたり制限したりするのがベターか、悩まされます。
さまざまな多様性を持つ人々が、同じ空間(地域、マンション、家、施設)で暮らす際、自分と同じ「感覚」「他者との距離感」を持っていることは、ほとんどありません。保護司と対象者は、ある種法的な関係性があるとも言えますが、対象者の生活をサポートする場面では、当然のことながら、すべて「介入」「干渉」するのではなく、対象者本人の潜在能力を信じて「自由」「放任」の姿勢と距離感を持つことも必要なのだと考えます。
そして、時に、視線を交わすだけ、手を触れるだけ、横にいるだけ、という存在としてのサポートも有効なことがあります。他者との距離感、人間関係の維持、難しいことです。